おおつき紅葉 x 未来のまちづくり
掲載日:2023.09.01
【現場の声を聴く】地域の声を活かした政策推進を 木彫職人・山口保さん
国内外から広く観光客が訪れる北海道小樽市。完成してから100年が経つ「小樽運河」が、今もまちのシンボルとして存在する背景には、約50年前に持ち上がった運河埋め立て計画に対し、多くの市民を巻き込んで論争を生んだ「運河保存運動」がありました。 その最前線で活動をした山口保さんに、当時を振り返りながら“未来の”まちづくりについて、おおつき紅葉議員(北海道4区)がお話をお聴きしました。
山口 保(やまぐち・たもつ)
木彫工房「メリーゴーランド」代表 http://otaru-merry-go-round.com
1947年、岐阜県飛騨生まれ。立命館大学法学部中退後、京都日仏学院を経て渡欧。在仏1年ののち、スウェーデンにて移動チボリの看板画工として就労。1975年より小樽市在住。「小樽運河を守る会」幹事会・幹事、ポートフェスティバル創立委員、小樽運河百人委員会創設、代表運営委員および小樽運河五者会談委員、第1~3回小樽・ 雪あかりの路実行委員会事務局長などを歴任。元小樽市議。
“小樽運河保存運動”
1970年代初頭、時代とともに物流の在り方が変化する中で、小樽運河を埋め立てて道路を大きく拡幅する計画が進められた。小樽運河と石造り倉庫群のまちなみを後世に残すため、1973年(昭和48年)市民有志が「小樽運河を守る会」を発足、約10年間にわたり活動が展開された。1978年からは音楽や物販など、現在のフェスイベントのような「ポートフェスティバル」をスタートさせる。運河が街の大きな魅力・観光資源であることに、多くの市民も改めて気づき、保存運動の原動力になった。運河の埋め立てか保存かの長い論争の末、小樽運河は1986年に半分を埋め立て、半分を残す今の姿になった。
地域を持続させる産業育成を
おおつき コロナ禍を乗り超えて、世界は新しい時代を迎えつつあります。これまでの山口さんの活動に加え、この先の小樽や北海道の在り方について、想いをお聞かせいただけますか。
山口 2000年頃から、特に小泉政権が地域の実情を無視した形で規制緩和を進めたことで、日本の地方都市には一気呵成にチェーン店や量販店、大手のスーパーが入ってきました。それが地域の消費者をかっさらい、商店や卸屋さん、製造業を含めて町は生きていく手段を失ってしまった。そういうなかでどう生き延びていくかは、どこの地方都市も課題です。
働く場所が減るなか子育て世代が大都市に移っていくケースが増えた結果、人口は減少し、高齢者ばかりが残る。小樽で言えば、訪れる観光客に対し、一定の文化的な背景を作って観光につながる産業を新たに育てていく必要があります。例えば仁木町や余市町は果物や農産物が豊富で、漁港もあって魚も捕れますから、それを加工品にして国内の市場で売れるブランドに育成していく。そうした地域と地域を連携させた新たな商品開発がなかなかうまくいっていません。地場調達率と言いますが、今は、いわゆる地場で調達したものを地場で売っていくことができず、外から仕入れたものをお客さんにただ売るだけの、ある意味で効果の薄い観光業になっている。この町に人を残して持続させていくにはまだ力が足りないと感じています。
日本の国も同様で、海外に生産拠点を移し、一方で円安により自国の通貨の価値が下がる。農産物をはじめ自国で調達できないなか、食料生産の在り方を見直す必要があります。かつては地域の産業として成り立っていた林業も、木材の輸入自由化とともに衰退し、いわゆるハウスメーカーが海外から安い木材を輸入して住宅を作り、地域の小さな工務店を潰していった。海外から評価されているにもかかわらず、日本の伝統的な木造技術もどんどん失われていきました。こうした日本の景観や文化、日本の国の形をもう一度組み直す。人を育てることと、自分たちの持っている資源を活かすこと。これを基礎に置き、もう一度国の形をビジョンとして掲げ、作り直していくことが必要です。
次の100年をどうするのか
山口 かつて「北のウォール街」と称され、北海道経済の中心としてあり続けた小樽の町が、高度成長のなかで取り残された形になっていました。そういうなかで「古いものが近代化の邪魔になっている」「幹線の道路を町の中に作れば追い付けるのではないか」という意識が市民の中にもあり、特に政治や行政、経済界は道路を造ることが小樽の発展につながると考えた。しかし、例えばイギリスではかつて貿易港として栄えた町が戦後経済の中心がアメリカへと移るなかで、いったんは衰退するも再開発で港を町の中心に据えた、人が集まる場所として機能分担をやるわけです。埠頭のところはカフェやレストラン、人を集めるにぎわいの場所に変えていった。小樽もそういう風に変えていけばいいのではないかとわれわれは提案したわけです。次の100年をどうするのか、道路を作るよりも港周辺の環境整備をすることでこの町の価値は上がると考えました。
小樽に残る歴史遺産を活かしながら、その風景とともに町のイメージを外に向かって発信していけば、観光が1つの産業になっていく。道路推進派に対し、「道路を造るより、そういう特性を生かしてまちづくりをした方が経済的にも将来的にもプラスではないですか」と訴えました。われわれ運河保存派は圧倒的少数でしたが、皆さんに理解をしていただき、事業決定され工事も進んでいるなか計画を白紙に戻すことができた。無理なことを言いましたが、民主主義は基本的に多数の意見を採択します。多数に理解をしてもらえるよう、ステップアッププランのようなものをしっかり組んで働きかけをしました。
われわれには党派性はないので、町をどうしたらいいのかという議論だけです。そういうことを10年かけて繰り返しやっていきました。
あるものを使ってお金を生み出す
山口 そこに「あんな臭いところに人が集まるわけない」と言われていたところでお祭り(※)という社会実験を仕掛けた。われわれ20代の若者が中心となり、最初は資金がないから仕事をしてもらうボランティアからも千円、大学生、社会人には3千円を出してもらい、2.8キロメートルある運河を囲むように出店をつくりました。結果的には(運河は)半分しか残りませんでしたが、戦略、戦術、プランを考えて最終的なゴールはどこかを見据えた上で取り組みました。
おおつき AppleやGoogle、かつての松下電器などもそうですが、20代で新しいアイデアを産業にしています。小樽で言えば、運河が残ったからこそ今の街並み、まちづくりがある。若い人たちがどう動くか、そのヒントがあれば伺いたいです。
山口 一人ひとりが、自分はどう生きるのかを考えることです。今は周りを見回してもなかなか希望が見えにくい状況ですが、生きる道はあるわけですからこれを探せばいい。
例えば、私は田舎に行ったらいいと言います。山は大きな資源です。単に木だけではない、山の底地にはちゃんと手入れをすればキノコも生えてくる。そこにあるものを使ってそこからお金を生み出すことができるわけです。大きなお金にならなくても地道にちゃんとしたことをやれば売れる。僕らの時代は道の駅もインターネットもなく、ものを売る手段が限られていましたが、今はそういうものを活用すれば自分が食べていけるだけの所得は十分稼げます。産業だって、上手にやれば中小零細ぐらいの規模の会社は十分に作れます。
国民に議論の投げかけを
山口 行政にはその提案を手伝う、インキュベーター(起業支援者)の役割を担ってもらいたいです。例えば今、獣害対策として電気柵には予算を付けますが、猟師を育てた方がいいのではないか。捕らえた獣肉をジビエとして生かせばいいと思いますが、食肉の加工場が足りていません。地域から声を上げて国に届けて、国、農水省などがそういう政策を進めたらいいと思います。
おおつき 地域の声が足りないということですか。
山口 足りません。国ができるのはある程度の指針を持って政策にお金をつけることですから、政治家は知恵を持って地域の人たちを誘導する、働きかけていくことが必要です。
政治家は国会での議論だけでなく、辻説法をしっかりやる必要があります。辻説法をやるには能力、知識が要ります。自分の考えをちゃんと持って、国民に議論を投げかける。ヨーロッパのようにシンクタンクを作って、政策を作って議論をして勉強する。立憲民主党こそやる必要があります。学者の応援団はいっぱいいますから、そういう人たちに協力してもらってシンクタンクを作る。そこで政治家を養成することです。今からでも遅くありません。
おおつき 日本の課題をさまざま聞かせていただき、次の世代は熱が足りない、しっかりと勉強してビジョンを示して、それでみんなを引っ張っていかないといけないと受け止めました。私自身大学時代をヨーロッパで過ごして、すごく共感できることがたくさんありました。しっかりとビジョンを示していかないといけない。課題を胸に頑張っていきます。